せっかく店内なのだから、と温かいデザート、
栗のパートフィロ包み。
栗のペーストをパリパリの皮で包んでいます。
温かいから甘味も濃厚。
いっしょに練り込まれたナッツの香ばしさと自然な甘味、
添えられたカシスのジェラート
とのハーモニーがなければふたくちで十分?というぐらい濃厚で、もちろんとっても美味しかったです。
おかわりしたくなるほど😄



いっしょに頼んだのはアナスタシア。
さっぱり柑橘系のフレーバー。

忙しないと、リラックスのはずのお茶もおざなり。
かなり贅沢ですが、リセットタイムも必要です。

週1ぐらい、やりたいなぁラブ



某企業で部長をされている女性が主催して下さってる女子会(?)




素敵なロケーションでうっとりです。

会のテーマは管理職としての悩みシェア。

業界は様々ですが、マネジメント職としてのロールモデルが見つけられない、のは共通のよう。

女性だからこう、と『見られて』しまうゆえの壁。

言ったり聞いたりすることで気付きやアドバイスが頂けました。

きもちいい~。



元祖羽根つき餃子、
蒲田のニーハオにて。

10個一人前500円、ハーフ300円。
羽根のぱりっと感がたまりません。

「はい、かしこまりました」
「少々お待ちくださいませ」
「申し訳ございません」
「ありがとうございました」
「またお越しくださいませ」

 

セブンイレブンでバイトしていた方はみなさんご存知、出勤したときに必ず読み上げる「誓いの言葉」。

着いてみたらレジが激込み、という時は制服着ながら裏からドリンク棚に商品補充しながら言っていました。出勤都度読み上げていたら、暗記するのも当たり前。

 

暗記しているのに唱える意味は、意識の切り替えと発声練習、かな?

家族や友達と話す時間ではない、独り言ではいけない、聞こえる声量で、なれ合いではない言葉で話さなければない時間に突入するぞ、という自覚へのスイッチ。

 

普段から場を弁えて切り替えをする習慣がある人は不要なのでしょうけれど、残念ながらみんながみんな、それが当たり前な環境で暮らしてきている訳ではない。

 

身近でよくありがちなのが、

「そうっすよね」

体育会系出身の人が「その通りですよね」という目上に対する相槌に使う言葉だけれど、基本これは「身内の中での先輩」に対する、「身内言葉」。

「その通りですよね」

も距離が近め。親しみが混じるニュアンスがありがち。

「おっしゃる通りです」

だと敬意や尊重が籠るけれど、相手との距離感が出がちなのでボディーランゲージや語調に注意が必要。

親しみを感じていてくれている人からすると、距離を置かれている、とよそよそしさを感じられてしまう可能性も。

 

対面の難しさは、そんなニュアンスをくみ取る、或いは「馴れ馴れしいのではない、自分が相手に好意を持っている」と伝わる話し方をするということ。

 

いつになっても難しい。でも、大事なことですね。

今の世の中、自分以外の人や組織と連携せずにできることは、どんどん減ってきているから。

コミュニケーション力を上げていかなければいけないこの頃。

 

 

 

ゴジラを見てきました🎵


いやぁ、やっぱりGODZILLAは和製が好きです。
あの、ずしぃぃいん、と不気味な余韻の歩みが好きですラブ
低音のラッパの鳴りがよく似合います。
そしてそれを味わいたいために4DX選んで大当たりでした!
オマージュリスペクト悪のりが詰まりまくっているところも楽しいです。
事前情報まったく見てなかった状態でみてよかったと思います。
答えあわせの楽しみが残ってますから。

 

中には酷評もありますが、初代ゴジラおよび、主に昭和特撮へのオマージュである作品だと思って見ました。

 

まず、真っ赤なバックに黒シルエットのゴジラがポスターになってるビジュアル。

ウルトラマン…帰ってきたウルトラマンかな? の赤バックに黒の切り絵の怪獣・星人たちがスライドするオープニングでしたよね。

 

ごく低い位置から、ミニチュア(風?)市街の崩壊するショット。

瓦一つ一つ、羽目板一枚一枚が飛んでいくのを幼心に見たとき、壊すためのものをこんなに細かく作ってくれるんだ、すごい!大人の本気ってすごい!!

と感動した記憶があります。

あのミニチュア感のある画像が子どもの頃の興奮を呼び起こしてくれます。

 

レコード盤が音源かな、と思えるちょっとエッジのぶれた伊福部サウンド。

 

黒くごつごつした皮膚の亀裂から赤い光、ゆっくりした歩み、キラウエアの溶岩流のように見えます。空気で冷え、黒く皮膜を作って自分でそれを破って赤い割れ目をのぞかせ、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。

逃げることが可能な速度だけれど、阻むことは不可能。

 

進化のルールに従い(?)地上に上がり、動きやすい平野を歩いているだけのゴジラ。

 

ノスタルジーと幼い頃の恐怖と興奮を呼び起こすだけではなく、悲しくも大人になってしまった今の視点でのリアルさも随分と盛り込まれていました。

英雄なんていない。

好き嫌いなんて感情を排除して、ひたすら協力してくれる人間と都度都度情報を共有して調整して精度を上げて、妥協せず確度を上げて、検証を積み上げて、上げて…

 

ゴジラは人の手の及ばぬ自然現象、或いは核の象徴から、ここで「仕事上」という卑近な困難にスライドするのでしょう。

幽霊の、正体見たり枯れ尾花、ではないですが、夏休みの怪獣映画の枠に落とすには、もしくは

「それでも生きていける希望」

にするにはその転換が必要なんだろうな、と。

それが 虚構vs現実 の構図の中に含まれているのかな。

目標を達成するまでは足を縫いとめてしまう感情は凍らせておかないと、そこで終ってしまう。

恨みや怒りでは冷静さをなくして、心から悼む時間が来ることを許してくれない。

 

モノローグがまるでない、あえて言うなら矢口のちょっとアジっぽい演説とパターソンの帰らない理由かな、というぐらいですが、それで人によって拾い上げたい部分がまるで変ってしまう、というのがまた面白い処ですね。

 

矢口の言動を聞いていると、おじいちゃんからWW2の話を色々聞いて育ったのかな、とちょっと思ってしまいました。

二二六、マリコ、あたりをどう聞いている設定になっているのか気になりますが、「怪獣映画」の枠の中で語れる範囲を出てしまうので裏設定としてはあっても表には出ないんだろうなぁ。